意識や心の構造が問われるようになるのは、17世紀以降である[要出典]。近世前期の哲学において、意識はもっぱら思惟を典型とする認識と表象の能力として扱われたといってよく、ただしこの認識能力は感情や感覚を含むものであった。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」(Je pense,donc je suis.(ラテン語訳Cogito,ergo sum.)などの方法論的懐疑により、後世に主観的でありしかもなお明証性をもつコギト(羅: Cogito)と表現される認識論的存在論を展開した。デカルトは世界を「思惟」と「延長」から把握し、思惟の能動性としての認識と受動性としての情念をそれぞれ主題化した。
ライプニッツにおいては、全表象能力は各々明晰さの度を持ち、最も完全な認識である悟性が神を直観的に認識するほか、理性は合理的推論を判明に、感性は感覚的把握を明晰に行うとされた。ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の語をドイツ語: Bewusstsein (字義通りには「知られている状態」)と造語し名づけた。カントは、Cogitoを「純粋統覚」(reine Apperzeption)とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識そのものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開した。
意識がドイツ哲学において全面的に主題化されるのはドイツ観念論においてである。フィヒテは、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的に知られるとした "ich bin" 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、カントが主題化した超越論的認識能力の原理へ拡大し、"独: das Ich"(日本語訳 自我)と呼び、その働きを定式化した。ここでdas Ichとは意識の能力にほかならない。つまり、そのようなdas Ichは、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち(独: Tathandlung(日本語訳 事行=自己を認識する活動である)と把握され、この自らを客観(対象)とする認識主観としての自我を自己意識と呼ぶ。フィヒテのほか、シェリング、ヘーゲルらが自己意識を哲学の問題として取り上げた。シェリングは、対象化された自己意識を「無意識」(Unbewusstsein(直訳:意識でないもの)、Bewusstlosigkeit(直訳:意識を欠いた状態))と名づけた。ユングはシェリングが無意識の発見者であると指摘している。ドイツ圏における意識についての研究は1780年代から1810年頃まで盛んに行われたが、その後は存在論的哲学に再び座を譲った。んやで
とってつけたような語尾でワロタ
サンキューやで
。の次に語尾付くの好き
特に知りたいのは、意識がの世界に存在するのか
まず世界と存在の定義をせなあかんわ
意識についての面白だとクオリア関連が興味深いで
現象判断のパラドックスとかな
興味深いな
ちょっと調べてみるわ
興味深いな
ちょっと調べてみるわ
“意識がある”という事実と“意識”という存在の確認は科学的な意味ではなく本人の認識に限ると2つ同時にしか起こり得ない
その時の存在ってどういう意味?
例えばパッと見て死んでるようにしか見えない人間に脳波の動き(意識)があるかどうかは本人の意志に関係なく第三者によって知ることができるが、本人が「今自分には意識がある」と確認する行為を無意識に行うことはできない
つまり生物学的な事実ではなく一人称視点のみで考えると、人は自分が意識の存在を確認できる瞬間にしか意識は存在できない
じゃあ寝てる時に見る夢は意識の外にあるの?
認識できるものは全て意識内にあるものだと考えてる
寝てる時に今自分には意識があると確認できる?
夢を夢だと気づくことができる時があるのを加味すると、夢の中でも意識を確認することはできなくはないと思う
でも起きている時より格段に難しそう
せやな
夢の中の自分は意思を持たずオート操作されているので意識の存在を確認できない
“意思”と“意識”はちゃうけど相互関係にある
例えば明晰夢を見ているときは自分の意思で行動できるけどそれは睡眠の最中でも「自分には意識がある」と確認できるからこそやろ
それだと毎日毎日寝て起きるたびに新しい意識が生まれては死んでいくことになるんじゃない?
意識が消えてる間どうやってその以前の意識との連続性たもってるの?
哲学的に考えたら保ってないと思うやで
だって寝る前の自分と起きた瞬間の自分が全く同じ人物だと証明することは不可能だからや
それならそもそも「今意識がある」と意識した瞬間とその次の瞬間での意識の継続性も証明できないと思うけど
「今意識がある」Aと「今意識がある」Bでは思ってる人間が違うっていうこと?それなら記憶はどこからやってくるの?
昨日のことを覚えてるのはなんで?
そこまでいくと地球シュミレーション説みたいになってまうけど勿論それも証明は不可能や
せやからワイは「意識があると認識した瞬間(=連続性のない今この瞬間)にしか意識は存在し得ない」と考えとる
ところで瞬間ってのはいつのことなんだ?
何秒間?
意識自体があるのは前者のほう
意識内の世界ってことや
サンキュー
ぐぐってみるで
じゃあ無の存在はどうしたら成り立つのかと考えた時に、そもそも死んだ時にワイらの見ている世界も消えるって考えたら、無があってもおかしくねえなと思った
でもそうすると意識はどこにおんねんってことになるから、そもそも意識自体は別の世界にいるんじゃねえかなと考えたんやけど、それから先に進まんわ
ドーナツの穴論争に近いな
結局は考える人の解釈次第や
例えば統合失調症の人が幻覚を見てるとする
しかし本人の目には明らかにそれは実物として見えている
幻覚として診断されるのは「本人以外には見えない」という理由
この統合失調症患者の見る幻覚を科学ではなく哲学で考えた場合って無があるかどうか、ドーナツの穴があるかどうかに近いと思うんやがどう思う?
すまん見落としてたわ
ワイのいう絶対的世界においては無の存在だろうけど、患者本人の意識内の世界にはその存在を認めることができると思う
そもそも絶対的世界ではワイらの見ている世界は無に近しいものだというふうに考えてる
なるほどなぁ
イッチの言う絶対的世界からの視点で何も見えていないとするのは、我々が視覚的に認識できるものは目という器官ありきであり匂いや風なども身体の存在なしでは認識できない
更に他の生物もなんらかの感覚に作用する器官ありきで“世界”を認識している
つまり感覚を捉える器官がなければ肉体と魂があっても世界は認識できないので神の視点から見た“本当の世界”は知ることができない
その事実を“絶対的世界”としてるということやろか
まさにその通りや
わかってくれてめちゃ嬉しいわ
人間は大なり小なり必ずこの問題に直面するやもんね
「自分のことを美少女だと認識しているブサイク」とか哲学的なテーマは身近や
哲学書なんて読書についてを拾い読みしたくらいや
哲学じゃないけどフロイトによれば人の心はエス、自我、超自我の3つの領域があるんや
エスってのは無意識のことでここから生じた欲求が超自我(道徳的規範とか)の検閲を受けて自我に行く
つまり心には意識と無意識の2つがあるみたいな考えや
この考えに近いんやない?
そこにある意識が視覚を介して意識内の世界をワイらに認識させていて、ワイらが認識している自身の存在は、あくまでも意識内の世界ってわけや
自分の経験だと断片的に記憶があるが、記憶が無いときって虫や植物と同じかどうか
断片的なのは単に子供の場合は記憶を司る器官が未熟で、自分にとって印象的な出来事しか記憶するキャパがないからだと思う
でも脳科学とか全くわからんから70%の確率で間違ってると思う
ちょっと今思ったんだが、その状況はワイが考えてる
絶対的世界と意識内の世界にめちゃくちゃ似てるかもしれん
水槽は絶対的世界で、脳はその世界にある意識や
宇宙人や神の作ったMMORPGのアバターで無いと誰が言える?
絶対的世界の絶対性については全く考えとらんかったわ
たしかに絶対的だなんて断言できないな